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Streetscape of Furumachi Kagai  / 古町花街の景観】

花街建築が創り出す景観の魅力

 花街は、「三業地」「二業地」とも呼ばれ、そこでは料理屋(料亭)、待合(茶屋)、置屋の3つの業種が、多くの場合ある一定の区域に集まって営業してきました。大正・昭和初期にピークを迎え、昭和30年代にも戦後の好景気の影響もあり盛り上がりを見せた花街でしたが、昭和40年代以降は社会情勢の変化や娯楽の多様化等により、全国的に衰退してきました。全国の現役の花街や跡地を訪れると、現在も営業を続けている料理屋も数軒見られ、花街の灯りを灯し続けていることに感激を覚えます。しかしながら、現役の花街であっても、料理屋は離れて点在し、元々料理屋や待合、置屋であった歴史的建造物も殆ど残っていないのが実情であり、花街の風情が感じられる町並みはほとんど残されていません。

東新道・新潟三業協同組合(旧美や古)前

 そんな中、新潟市の古町花街には、今でも古町芸妓を呼ぶことのできる伝統的な料亭が12軒も存在します。この内、10軒と殆どのお店が古町通8・9番町界隈に寄りあって営業しています。全国的に見て、現役の料亭がこれほど近い距離に集まって営業している例は他に見当たりません。さらに、この界隈には第二次世界大戦前に建築された、元々料理屋や待合、置屋として建築された歴史的建造物がよく残っています。玄関回りの外装や内装を修理しているお店も多いため一目では伝統的な和風建築であると気づきにくいですが、実に全体の3分の1程度の建物が歴史的な建物だと推定されます。これらより、古町花街は「全国随一の伝統的料亭街」と言えましょう。特に、古町通りの東西に並行して伸びる石畳舗装の「新道」を歩くと、ひと昔前の街に時空を超えて足を踏み入れたかのように、表の通りとは異なる風情を感じられることでしょう。

西新道・味処いづも前

 花街の歴史的景観と言えば、多くの方は京都の祇園や金沢の東茶屋街などを想起されることでしょう。これらの地区はお茶屋中心の「茶屋型花街」であり、軒が揃い統一感のある景観は、まさに息をのむ美しさです。一方、古町花街は料亭中心の「料亭型花街」です。料亭は茶屋に比べ、その敷地規模、建物の形態やデザイン、付設する庭園の規模などは店舗ごとに大きく異なる傾向が見受けられます。そのため、古町花街は京都や金沢とは異なり、歴史的風情の中に多様性を楽しめる景観といえます。

 花街の建築物には、上品さと格式を重んじる花街を象徴するかのように、上質な材と繊細な造作からなる数寄屋風の意匠が随所に見られます。こうした特徴は主に座敷などの内部空間に顕れていますが、玄関回り等の外観にも凝った意匠が漏れ出しているものも多く見られます。例えば、明治末建築の元料亭「旧有明」は、玄関屋根やそれを支える垂木の角に銅板をふんだんに使用し、路地面の二階張出しの下部には曲面状の意匠的な板が張られています。こうした特徴を挙げればキリがないほどに、デザインや材料の選択に細心の工夫が見て取れます。古町花街を歩く際は、花街の風情を全身で感じながら、繊細な魅力にも触れてみてはいかがでしょうか。

元料亭・旧有明

花街支える舞台装置 「料亭」の魅力

 古町花街には、芸妓を呼べる歴史のある料亭(料理屋)が現在も12軒存在します。ここでいう「料亭(料理屋)」とは、新潟三業協同組合に加盟し、専ら芸妓を派遣する店舗として認められている日本料理店のことを指します。実際、これらのお店以外であっても、「遠出」として割増料金を払えば店舗によっては芸妓を呼ぶことが可能です。

料亭・鍋茶屋

 新潟の代表的料亭としてまず挙げるべきは、新潟古町の市街地中心部にどっしりと大門を構える「鍋茶屋」でしょう。江戸時代後期に創業した老舗料亭であり、建物の規模や料亭としての格式は全国第一級です。なかでも建物の一番の見どころは、3階にある全国最大級の200畳敷の大広間でしょう。全国の料亭建築の中でも殆ど類を見ない規模であり、見事な折上格天井や繊細な床の間の造りも印象的です。このような近代和風の粋が凝らされた「和」の座敷に加え、精緻な細工の漆喰天井やステンドグラスなどで飾られた洋間の応接室もあり、そのバリエーションの豊富さに訪れるたびに驚かされます。

 古町の日本海側に隣接する地区「西大畑」に位置し、鍋茶屋と合わせて新潟で双璧を成している「行形亭」も全国区の料亭と言えます。行形亭は今から300年以上遡る江戸中期の創業とされ、全国でも指折りの歴史を誇っています。約2000坪の広大な敷地には滝や池が造られ、それを囲むように140畳の大広間をはじめ計11の部屋が離れ座敷として配置されています

料亭・行形亭

 この他、古町通8・9番町界隈に9軒もの現役料亭があります。その内、かき正、金辰、きらく、寿ゞむら、大丸、やひこの6軒は歴史的な数寄屋風建築です。いずれも風情漂う外観に、どこか懐かしさを感じさせる洗練された和室に魅力を感じられます。また、ホテルイタリア軒別館の料亭「蛍」は平成の大改修を経て数寄屋風の造りになっており、外観こそ近代的なビルの「一〆」「大善」にしても、中に入れば和風の設えと座敷が迎えてくれます。料亭ではそれぞれに建築や料理、床の間の飾り方などに個性があり、独自のこだわりともてなしの気持ちがにじみ出ています。

料亭・やひこ

 行形亭の前社長によれば、昭和30年代初め頃までは、お客さんはまず湯殿で汗を流し、店の浴衣に着替えて宴会をし、宴会が終われば店の浴衣と下駄を着たまま帰宅し、翌日に店の車夫が着物と下駄をお客さんの家に回収に行っていたようです。こうした今とは違う料亭の使い方からは、昔ながらのゆったりとしたお座敷の時間の流れも感じられます。一方で、鍋茶屋と行形亭では平成以降、ウェディング事業や観光ツアーの受け入れなど、新たなチャレンジも見られます。また、かき正と金辰では、それぞれ「かき忠」「茶はん」という名称でリーズナブルなランチ営業も行っています。夜の料亭にいきなり行くのは緊張するという方は、まずはランチで肩をならし、順番にステップアップしていくのも良いでしょう。

料亭・金辰

 伝統を大切にしながらも、時代に合せて営業スタイルを柔軟に変化させてきたからこそ、料亭の文化は現代まで数百年続いているのでしょう。地域の、ひいては日本の伝統文化を未来に繋ぐ継承装置として、これからも生き続けて欲しいと願わずにはいられません。

料亭・かき正

粋な小宇宙 茶屋建築の美

 花街における「茶屋」とは、客に座敷を貸し、仕出しをとってもてなす店のことをさします。地域により待合、待合茶屋とも呼ばれ、新潟古町では専ら「待合」と呼ばれていました。昭和の中頃までは、古町でも待合が多数営業していました。待合は少人数での宴会や二次会に使われることが多かったため、料理屋に比べ一つ一つの座敷は小さく、建物全体や敷地の規模も小さい傾向にありました。そうした中でも、菊池寛や芥川龍之介などの名だたる文豪が足を運んだと言われる「玉屋」、立派な高い黒塀や門構えが印象的な「近江屋」や「金寿」など、料理屋に負けずとも劣らない格や規模を有する待合もありました。

 しかし、昭和後期以降、社会情勢の変化や二次会利用客の減少などにより、その数は急激に減少し、現在は茶屋形式の料亭として「寿ゞむら」の一軒が残るのみです。寿ゞむらは、芸妓を呼び、小さな座敷でゆったりと二次会を楽しむにはうってつけのお店と言えましょう。床の間に季節に合わせて設えられた書画骨董や花からは、女将さんの高い教養と確固たるこだわりが伺えます。

お茶屋・寿ゞむら

 寿ゞむらからすぐ近く、西新道沿いには、かつて初田中という待合が入居した歴史的建造物が現存しています。所々に増改築が施されながらも、西新道から西堀通りまで繋がっている長屋形式の建物で、地区内でも希少なものの一つです。現在も数店の飲食店やバーなどが入居し、二次会利用の客を迎え続けています。

元待合・しなの(旧初田中)

 茶屋建築としては、現在新潟三業協同組合や柳都振興株式会社等が入居し、古町花街の拠点施設となっている「旧美や古」を紹介しないわけにはいきません。外観を眺めると、塀には「無双窓」という凝った造りの窓が設えられ、玄関庇の垂木には桜の皮付き丸太が使用されています。アプローチとして造られた前庭は客をL字に玄関へ誘導し、僅かな距離の中で奥行のある空間を演出しています。茶屋建築はその内部構造にも特徴があります。小部屋がいくつもあり、それらを細い廊下が複雑に接続し、迷路のようになっている場合もあるのです。長年古町花街に生き、花街文化を支えてきたベテラン芸妓の福豆世さんは、「お客さんにはプライベートな空間で楽しいひとときを過ごしてもらいたいでしょう。ですから、お客さん同士が思いがけず鉢合わせたりしないような造りになっているんですよ」と語ります。その言葉通り、旧美や古の各座敷にはそれぞれ隣接してトイレが配置され、宴席の間、常にプライベートで落ち着いた空間がお客さんに提供される仕組みになっています。

元待合・新潟三業協同組合(旧美や古)

 現在、旧美や古は「古町柳都カフェ」としても使われており、一般の方も喫茶を利用すれば部屋を一部見学することができます。玄関戸をくぐると、頭上には自然木を多用した凝った造りの折上げ天井が広がります。靴を脱ぎ、視線を前に向けると、「柳都さん」と呼ばれる柳都振興(株式会社組織の置屋)所属の若手芸妓が出迎えてくれます。その日の状況により通される座敷は変わりますが、前庭が見えるすっきりした造りの部屋、茶室風の凝ったデザインが随所に見られる部屋など、それぞれに趣があります。茶屋の魅力を体験したい方は、ぜひ古町柳都カフェに足を運び、趣きある空間で柳都さんと交流する豊かな時間を過ごしてはいかがでしょう。

置屋 芸妓の美意識体現

元置屋・バー町田(旧菊柏)

 置屋とは、平たく言えば芸妓の住居のことです。昭和の中頃までは、デビュー前の見習い期間から一人前の芸妓として認められるまでの間、置屋の「お母さん」や同じ置屋所属の芸妓と共同生活をするのが一般的でした。置屋はあくまで特定少数が出入りする「住居」であり、不特定多数の客を歓待し商売する「店舗」としての料理屋や待合とはその性質を異にします。料理屋や待合では、宴席の場を求める人々を集客しなければならないため、お金をかけ、建物内外の造りやデザインを凝ったものにするのは自然な流れでしょう。しかし、置屋は芸妓の住居であるため、完全に施主の趣味の問題です。にも拘わらず、置屋建築は高級な床柱を用いた床の間や繊細な彫刻が施された欄間を設えるなど、凝った造りのものがよく見られます。こうしたところに、芸妓の美意識やこだわりが顕れていると考えられましょう。そのこだわりは外観にも見て取れ、その一例が「袖垣」です。これらは路地沿いに玄関を有する置屋に多く見られ、門や前庭がなくとも、玄関部に奥行きを感じさせます。そのデザインも、格子状の木組みに銅板の小屋根を載せたもの、竹材を寄せ合せたもの、自然木を埋め込んだ漆喰塗りのものなど実に多様であり、路地空間の表情を豊かにする景物となっています。

元置屋(旧松寿)の袖垣

 昔の置屋について、古町芸妓の扇弥さんは、「昭和の頃には一人前と認められた芸妓が独立して自分の置屋を持つ時に、自分が育った置屋の屋号から名前を分けてもらったのよ。「一元」から独立して「新一元」、「鹿島屋」から独立して「米鹿島」といったようにね」と懐かしそうに語ります。独立する際、古町通8・9番町界隈にある長屋の一戸を購入し、置屋として看板を掲げる例も多かったといいます。そのため、この界隈には長屋の住人のほとんどが芸妓だった例もありました。その遺構とも言える、端から端までいくつもの置屋が入居していた長屋形式の歴史的建造物が、今も広小路と古町通りの交差点角に残っています。実は、私が2021年秋まで5年以上住んでいた建物であり、私はこれを「置屋長屋」と呼んでいます。住戸毎に玄関脇に前庭が設けられていた痕跡がある点、内部に立派な床の間や下地丸窓が設けられている点など、一般的な質素な造りの長屋とは一線を画す、数寄屋風の凝った造りが大変味わい深く感じられます。

元置屋の長屋

 置屋ではありませんが、多くの芸妓が稽古に通った市山邸と旧花岡邸の建物も非常に魅力的です。市山邸は代々の日本舞踊「市山流」家元の自宅兼稽古場であり、現在は七代目・市山七十郎先生が建物の主です。明治末期の建築であり、地区内でも指折りの歴史を有する建物ですが、お面の彫刻が施された玄関戸の欄間、矢羽根模様の目隠し板など、舞踊の師匠宅にぴったりと感じる凝ったデザインが随所に見られます。

 また、小唄や清元を習いに多くの芸妓が通った旧花岡邸は、各部屋の天井や床の間などの造りの多様性、床柱の銘木のこだわりなど、非常にレベルの高い数寄屋風建築です。旧花岡邸は、古町芸妓であった春日とよ花氏が20代で芸妓を辞め師匠に転向する際、住居兼稽古場として建築したものとされます。つまりは、これも芸妓の美意識を体現した建築の一つと言えましょう。現在、建築の美しさをそのまま活かし、老舗の鰻専門店「瓢亭」が店舗として活用しています。

 古町花街には、元置屋の建物でバーなどに改装されているものも多くあります。ぜひ、美味しい食事やお酒とともに、置屋建築の「粋」も堪能してはいかがでしょう。

元邦楽稽古場・瓢亭(旧花岡邸)

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