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What's Kagai ? 花街とは?】

花街とは?

 ここでいう「花街(かがい)」とは、娼妓の遊廓とは異なり、芸妓が活動する都市空間のことを指しています。近代以降、花街は段階的に色街としての機能を排除していき、歌舞音曲で客を持てなす地域政財界の社交場として重用されてきました。花街は明治を中心に全国の都市でつくられ、戦後消え去った遊廓とは異なり、現代に生き、さらには将来に渡って生き続けるべきものでしょう。

 過去の花街は、当時としては最先端であり、今では伝統芸能となった日本舞踊や純邦楽で客をもてなしました。昭和後期には、新たな接遇の場としてスナックやキャバレーなどが生まれましたが、花街は伝統を頑なに、真摯に守ってきたことにより、往時とは異なる現代的かつ普遍的意義を有するに至ったと言えましょう。花街は、日本舞踊や純邦楽などの古典芸能、書画や骨董などの古美術品、茶道・華道などの伝統芸能、懐石料理や精進料理などの日本料理、和服など、あらゆる日本の伝統文化を包括的に継承するおそらく唯一の場となったのです。

 また、世界的に見ても、花街のように売春街としての機能を廃し、純粋な伝統文化の継承装置として、現代になお生き続ける類似の空間は、他に見当たりません。この点においても、近年は単に遊興の場としてではなく、国内外向けの文化・観光資源としてその価値が見直されています。花街は、今や一部の旦那衆(パトロン)が利用する閉じられた空間ではなく、市民に開かれた地域全体の財産と言えるでしょう。

料亭「鍋茶屋」に入る古町芸妓(新潟市・古町花街)
料亭「鍋茶屋」のお座敷に向かう古町芸妓(新潟市・古町花街)
花街を保全・継承する意義

 花街は、日本舞踊や純邦楽などの古典芸能、書画や骨董などの古美術品、茶道・華道などの伝統芸能、懐石料理や精進料理などの日本料理、和服など、日本の伝統文化を包括的に継承する場です。また、建築においても、数寄屋造りや銘木、日本庭園など、日本の伝統建築を数多く内包する場でもあります。このように、花街とは日本の伝統文化をハード・ソフトともに包括的に継承する唯一の場であり、現在の日本において大変稀有な空間であるといえます。近年は、その文化的、建築的価値が再評価されており、各地で地域活性化に資する文化資源としても注目されつつあります。

 芸妓主体の花街と娼妓主体の遊廓(色町)は近代に入り分離された。かつて花街は全国に600 箇所以上存在し、昭和初期から戦後の高度成長期にかけて隆盛を極めたと言われますが、現在では一定規模の現役の花街は約50ヵ所に減少しており、大阪や仙台などの大都市においてでさえ消滅の危機に瀕しています。昨今の経済状況や料亭の経営者・芸者衆の高齢化を踏まえると、今後も衰退傾向は継続し、消滅に向かう花街も増えることが予想されます。よって、現存する花街を調査し、保全策を講じることは緊急の課題となっていると言えましょう。
 近年では、京都や金沢において、花街の景観や文化の保全・継承活動により花街が町のシンボルとなり、インバウンド観光の増加に大きく貢献しています。このような効果は、現役の花街が存在する他都市でも同様に期待することができます。加えて、花街の遺構は全国各地に存在し、最近は秋田や横浜などの一部地域で一度途絶えた花柳界(花街の業界を指す用語)を再興する動きもあることから、花街が消滅した都市においても、花街は地域活性化に有効な文化資源だと考えられます。

 花街は世界無形文化遺産となっている和食、歌舞伎、着物などを継承する場であること、イベント等で一般市民もお座敷などに参加できる機会が増えつつあることからも、今後「花街文化」を地域全体で保全・継承していく動きは全国に広がっていくことも期待されます。

花街の研究を行う意義

 現在の花街の都市空間は、昭和初期・中期の頃と比較して大きく変化しており、今後の更なる都市空間の変化や花柳界関係者の高齢化を鑑みると、昭和初期・中期の花街の都市空間を明らかにすることは喫緊の課題です。

 これまで、花街空間の変遷としては遊廓に関する史的研究が多く、その一部で芸妓中心の花街を取り上げている場合はありますが、芸妓中心の花街を主体にした研究は非常に少ない状況です。また、歴史地理学分野においては一定の蓄積がありますが、都市建築分野では個々の建築を中心に扱ったものが僅かにある状態でした。近年は、花街空間研究会(代表:新潟大学・岡崎篤行教授)により花街の都市空間の変遷に関する研究は蓄積されつつありますが、今はまだ地域毎の特性を明らかにするまでに留まっており、今後は花街空間の変遷に関する地域横断的な研究が必要と考えられます。

 花街に見られる歴史的景観においても、一般的な歴史的景観と同様、全国的に急速に消失しつつあります。そのため、現存する歴史的景観を有する花街は稀有な存在と言え、その景観を構成する花街建築の外観特性を調査・記録することは建築史的観点からも重要であると考えられます。

 しかし、現役の花街の内、茶屋中心の花街である京都と金沢では重要伝統的建造物群保存地区選定に先立ち、街並みの調査がなされ、その歴史的価値が明らかとなっていますが、これらを除く東京や新潟等の多くの花街は料理屋中心であり、街並み調査がなされた場所は殆どありません。そのため、料理屋中心の花街である「料亭型花街」における花街景観の特性を明らかにすることは新規性があるといえます。さらには、調査対象地域において、花街を文化資源と位置づけ、その歴史的景観の保全を進める際には、調査結果が景観保全のルール作りにおける基礎資料となり得るため、社会的有用性も備えていると考えられます。

花街の読み方

 宋(960-1279年) の詩人である黄庭堅の漢詩「満庭芳・妓女」に、「初綰雲鬟、才勝羅綺、便嫌柳巷花街。占春才子、容易託行媒。其奈風流債負、煙花部、不免差排。劉郎恨、桃花片片、流水惹塵埃。風流賢太守、能籠翠羽、宜醉金釵。且留取垂楊、掩映廳堦。直待朱幡去後、從伊便、窄襪弓鞋。知恩否、朝雲暮雨、臽向夢中夾。」とあります。ここで遊廓や色町のことを意味する「柳巷花街(りゅうこうかがい)」という言葉が使われており、この柳巷花街という言葉を略して「花柳( かりゅう」または「花街(かがい)」と呼んでいたとされます。「柳巷(りゅうこう)」は柳の木を並べて植えてある街路、「花街(かがい)」は花の咲いている街路のことを指しており、昔の花街には多くの柳や花が植えられていたとも、艶めかしい遊女を柳や花に譬えたとも言われます。

 過去、花街という単語は様々な読み方をなされてきました。とりわけ、江戸中期から明治後期までの歌舞伎の演目や随筆・洒落本などにその傾向は顕著に見て取れます。歌舞伎の演目を例に挙げれば、「嬌柳花街暁(1747 年)」では「くるわ」、「傾城花街蛙(1756年)」では「さと」、「通花街馴染曽我(1801年)」では「はなまち」というように、実に様々な読み方がなされていますが、「かがい」と読ませるものは確認できません。一方、随筆・洒落本などの文献においては、「拾遺枕草紙花街抄(1750年頃発行)」では「くはぐはい」、随筆「花街漫録(1825年発行)」や風俗書「花街名物記(江戸後期発行)」では「かがい」というように、風俗書や随筆などにおいては「かがい」と読ませるものが多く見られます。

 歌舞伎と文献資料におけるこうした差異は、歌舞伎においてはその演目の内容や雰囲気を表現するための語呂が重視され、一方で随筆や風俗書においては実際に花街で使用されている呼称が重視されたことによると思われます。また、「はなまち」という読み方は戦後広く使われるようになったと考えられますが、その一因として、昭和48年に発表された三善英史の歌謡曲「円山・花街・母の町( まるやま・はなまち・ははのまち)」、同じく昭和48年に発表された金田たつえの演歌「花街の母( はなまちのはは)」の影響があると推測されます。
 以上より、
日本における花街は、宋の時代以降である鎌倉時代後期〜江戸時代初期(1528~1584頃)から現れ始めたことから、花街という言葉は中国から伝来したものであり、本来の読み方は音読みである「かがい」と考えられます。また、「はなまち」の呼称が一般に広く使われている昭和後期においても、「京都五花街」は「きょうとごかがい」と呼ばれ、「かがい」と読む習慣が残されていたとされます。近年になり、京都では「はなまち」でなく「かがい」が一般にも使われるようになり、現在は全国的に「かがい」という呼称が一般的になってきています。

【参考文献】

・太田達, 平竹耕三:京の花街- ひと・わざ・まち, 日本評論, 2009.4

・加藤政洋:花街 異空間の都市史 , 朝日新聞出版 , 2005.10

・夫婦で行く花街 花柳界入門:浅原須美 , 小学館 , 1998
・( 宋) 黄庭堅:黄庭堅全集第一巻, 四川大学出版社,2001

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